「異国で王になった男」山田長政

バンコック駐在員事務所
新宅 令康

 サワディーカップ。シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝配下の王国リゴールで王となった日本人をご存知でしょうか。「オークヤー・セーナーピムック」というタイ名で17世紀(日本の江戸時代)に活躍した山田長政です。

 今回は、異国の地で他に類を見ない立身出世を実現した山田長政のサクセスストーリーをご紹介したいと思います。

 山田長政は1590年頃に駿河国(現在の静岡県)で誕生したと言われております。 武士でしたが、末端の身分(駕籠を担いで人を運ぶ駕籠かき)でした。海外で一旗揚げたいと考えていたのでしょうか、1612年頃に朱印船でシャムのアユタヤ王都に渡りました。アユタヤに到着後、山田長政は現地の日本人傭兵隊に加わりました。当時のアユタヤは貿易が活発な国際都市として繁栄していた一方、国内外での紛争も絶えず、日本人傭兵は貴重な戦力となっておりました。日本人傭兵の多くは、「関ヶ原の戦い」や「大阪の陣」で活躍した屈強な武士(浪人)で構成されており、普段は貿易商人として活動していたものの、有事には国王の軍として勇猛果敢に戦いました。

 軍事的な才覚に加え、強運も味方にして徐々に頭角を現し、ついに約800人の日本人傭兵の隊長となった山田長政は、スペイン艦隊の侵攻を撃退するなど、数多くの武勲を立てました。その輝かしい功績から1628年に当時のアユタヤ王朝ソンタム国王より、最高の官位であるオークヤー(大臣級の官職)に任命され、セーナーピムックという名を賜ります。その後、1629年にはアユタヤ王朝配下のリゴール王国の王にまで昇り詰めました。しかしながら、1630年に戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの薬を塗られて非業の死を遂げたと言われております。

 ちなみに、山田長政は日本人町の頭領も務めていました。日本人町とは、14世紀~18世紀までアユタヤ王朝に実在していた町で、移民とし渡航してきた日本人が集まり、傭兵や貿易を行って生活をしていました。ピーク時には2,000人~3,000人の日本人が住んでいたと言われています。1630年、「日本人に謀反の疑いあり」という理由で、日本人町は焼き払われました。その後、1632年に再建されましたが、日本の鎖国政策の影響もあり、18世紀はじめ頃に消滅してしまいました。

 現在、タイのアユタヤ(バンコクから北へ約70㎞)にある日本人町の跡地には、「日本人村」の名称で石碑や記念館が建ち、歴史を知ることができる施設となっています。

 タイにお越しの機会があれば、是非アユタヤの日本人村にも足を運んでいただき、日本人村から見えるチャオプラヤー川の景色を見ながら、山田長政や日本人町に在住していた当時の日本人に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

(本ページの写真は全て筆者が日本人村内にて撮影)