上海語の現在地 ~耳をすませば、街角に残ることばがある~

上海駐在員事務所
明賀 隆之/施 瑾

 ニーハオ!

 みなさま、こんにちは。上海駐在員事務所の明賀です。好評につき、今回も弊所現地スタッフの施とともにお届けします。テーマは、「消えゆく地域のことば」と、それに影響を与える"標準化"という静かな圧力です。

 都市化の進展、教育制度の変化、そしてテクノロジーの普及により、地域に根ざしたことばが、日常の中から少しずつ姿を消しつつあることに気づかされます。この現象は、どのように起き、どんな影響を与えているのでしょうか。現地のリアルな視点とともに、そうした変化の背景をひも解いていきます。

 上海で暮らしていると、時折、聞きなれない響きの言葉が耳に入ってきます。たとえば朝の公園や市場、そして近所の個人食堂など、高齢者同士が交わす会話のなかに、私が勉強している中国の標準語=マンダリンとは異なる、独特のリズムや発音の言葉が混ざっています。

朝の公園で太極拳を楽しむ高齢者たち。
ここでは今も上海語の会話が聞こえてきます。

朝の公園で太極拳を楽しむ高齢者たち。
ここでは今も上海語の会話が聞こえてきます。

 音だけを聞くと中国語の一種のようにも思えますが、意味はまったく分かりません。マンダリンが「四声」と呼ばれる明確な声調体系を持つのに対して、街中で聞こえてくるこの言葉は、より複雑で繊細な抑揚と音の高低を持ち、リズムや語感もまったく異なります。同じ国の言葉でありながら、学習者にとっては全く別の言語のように感じられるのです。

活気ある市場では、買い物客のやり取りに今も
上海語が使われています。

活気ある市場では、買い物客のやり取りに今も
上海語が使われています。

 現地の方に聞いてみると、それは「上海語」なのだそうです。日本では、関西弁や広島弁のような"方言"の一種だと思われがちですが、実際にはどういう言語なのでしょうか。

近所の個人食堂では、朝食を買いに訪れる常連客の間で、
上海語の会話が自然と交わされます。

近所の個人食堂では、朝食を買いに訪れる常連客の
間で、上海語の会話が自然と交わされます。

明賀:
上海語というのは、マンダリンとどのような関係にあるのですか?
施:
日本では方言のように捉えられがちですが、上海語は中国語の主要な言語系統「呉語」に属します。一方、マンダリンは「北京官話」をもとに標準化された言語であり、音の仕組みや語彙、文法の構造が大きく異なります。広東語や福建語と同様に、上海語も独立した言語と見なしたほうが実情をよく表しています。
明賀:
上海語といっても、地域によって使われ方に違いがあるのでしょうか?
施:
はい。市内中心部と郊外とでは、発音や表現に違いがあります。上海は長年にわたり中国各地から多くの移住者を受け入れてきた都市です。そうした多様な背景を持つ人々の交流が続く中で、言葉の使われ方にも自然と違いが生まれ、地域ごとの表現や発音に幅が出てきたのです。
明賀:
上海語は、話し言葉だと聞いたことがあります。書き言葉は存在しないのでしょうか?
施:
その通りです。標準化された書き言葉は存在せず、公的な文書や教育の場ではマンダリンが使われています。日常的なやり取りでは今も使われていますが、あくまで口伝の文化です。
明賀:
最近では、上海語をあまり耳にしなくなったそうですが、何か理由があるのでしょうか?
施:
大きな理由は三つあります。
 一つ目は、教育現場でのマンダリンの徹底です。2000年に「国家通用語言文字法」が施行され、公立の幼稚園から大学に至るまで、教育は原則としてマンダリンで行うことが義務づけられました。
 二つ目は、他地域からの移住者の増加です。2023年時点で、上海の常住人口の約4割が他地域からの移住者であり、共通語としてマンダリンが広く使われています。
 三つ目は、メディアの変化です。以前は上海語のテレビやラジオ番組も多くありましたが、現在ではほとんど姿を消しつつあります。
明賀:
家庭内での言語使用にも影響が出ているのでしょうか?
施:
まさにその通りです。私自身の家庭も例外ではありません。私が子どもの頃は家庭でも学校でも上海語が中心でしたが、2007年に娘が生まれて以降、家庭内の会話も意識しないうちにマンダリンへと移行していきました。その結果、娘は上海語を「聞き取ることはできるけれども、話すことはできない」という状態になってしまいました。
 言葉が変わることで、世代間のコミュニケーションだけでなく、地域に根ざしたアイデンティティの継承にも影響が出ているように感じます。最近は危機感を覚え、家庭で意識的に上海語を使い、娘にも少しずつ教え直しているところです。
明賀:
高齢者の方が使っている場面は、今も街中で見かけます。
施:
そうですね。高齢世代では今も日常語として使われています。ただ、スマートフォンのピンイン入力(マンダリンのローマ字入力)に不慣れな方が多く、音声通話や手書き入力、あるいは当て字を使ってやり取りしているケースもあります。
明賀:
言葉の変化には、教育制度や社会構造だけでなく、技術の進化も影響しているのですね。
施:
おっしゃる通りです。今後、上海語は共通語としての役割をマンダリンに譲りながらも、「家庭語」や「地域文化の象徴」として残っていくと思います。それは単なる言語ではなく、上海人にとっての文化的な記憶であり、アイデンティティそのものとも言える存在です。話者が減っても、その価値が失われることはありません。
明賀:
言葉は単なる道具ではなく、文化そのもの。今日のお話から、それを強く実感しました。ありがとうございました。
施:
こちらこそありがとうございました。今後も引き続き「中国の今」をお届けしていきますので、よろしくお願いします。

写真はすべて筆者撮影
イラストは生成AI「Midjourney」より作成
(2025年5月)